今日は10月5日。天国にいるお兄ちゃんの誕生日。
私の兄は、兄が38歳の時に、急性心筋梗塞で亡くなりました。
お兄ちゃんの死は、何より何より悲しすぎて、今でも悲しすぎて、ブログにあれこれ書く自信がないので、以上にします。厳密に言うと、ブログを書くことで、普段、日常を送るために蓋をしている心の悲しみが開いてしまうのが怖いので、以上。
でもお兄ちゃんが生きていたことには思いを馳せたいので…
お兄ちゃん、ハッピーバースデー🎉🎉🎉❤️❤️❤️生きてたら、44歳やなぁ。立派なおっさん😆
ほんまに心が綺麗で、人の悪口とか絶対言わないお兄ちゃんやったな。知識があって、政治家とか社会のあり方とかはバッサバッサ切ってたけど、人の悪口という類のものや、他者を馬鹿にするような発言は聞いたことがなかったなぁ。
あ、やばい。やっぱり、これ以上思い出に浸ったら、自分を保てなさそうなので、この辺で。
少しだけ心理士らしいことを…。
愛する人を喪失するというのは、やはり本当に悲しいことです。そうした喪失したことによって引き起こされる様々な心や体の反応を「悲嘆」と言います。「悲しみ」と「嘆く」という言葉。よくもこんなぴったりくる言葉を考えたなと思わずにはいれません。
「悲嘆」というものは、喪失に対するごく自然な反応です。悲しみや寂しさ、痛み、不安、怒り、罪悪感。こうした様々な感情だけでなく、身体や行動にも現れます。私が兄のことをこれ以上書けないというのも悲嘆の形です。
知っておくべき大切なことは、悲嘆はごく自然な反応であり、何もおかしくないということ、そして、悲嘆の形は、人それぞれ全く違うということです。
悲嘆は時間とともに変化していくと言われていますが、その変化の仕方も、速度も、正解の形はありません。
大切な人を喪失したその圧倒的な悲しみに適応していく作業をグリーフワークといいます。そのグリーフワークも、決して、「大切な人の死を乗り越える」とか「悲しみから立ち直った」とかを目指すものではないと考えています。
大切な大切な人がいなくなってしまった世界は、これまで生きてきた世界と全く違います。ある日突然、その別世界で生きていかなければならないのです。それなのに、「その死を乗り越えて、そんな悲しみはなかったかのように元のように元気に前向きに生きていく」なんてことは、少なくとも私には不可能ですし、多くの研究者もそう言ってくれています。
大きく変わってしまったその新しい世界・新しい日常で、なんとか生き延びる方法をみつけること、そしていずれは、故人との新たなつながり・絆をみつけ、それを持って、悲しみと共に、でもポジティブに生きていく方法をみつけること、それがグリーフワークを通して見つけられることのような気がしています。
悲嘆の形が人それぞれであるように、グリーフワークの方法も人それぞれで、手作りであるべきです。
お兄ちゃんの誕生日に、お兄ちゃんのことはいっぱい書けないけれど、悲嘆について考えた。お兄ちゃんが突然いなくなったんだもん。そら6年経ってもまだブログに書くことすらできなくていいんやわと思えました😊これが今日の私なりのグリーフワークでした。
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Itoさん、そやんな。きっとうちらが毎日悲しんだり、罪悪感で苦しんでたら、お兄ちゃんが悲しむ。だから毎日楽しくいきていこう! 愛する人が、突然亡くなるってこと、あるって知ってたけど、それが自分に起こるとは夢にも思ってなかった。ほんまに大切なこと見失わずいきていかなあかんな🥰
お母さんが亡くなって3年くらい経った時、お姉ちゃんが悲しみに慣れただけやなって言ったのが本当にその通りと思ったわ。会いたくても会えない状況に慣れただけ。お兄ちゃんの事もなんで?と考えても答えが分からんし、後悔しても時間は戻らへんし。ただお兄ちゃんがうちらが悲しんでたら悲しむやろうなと思うから毎日楽しく生きていこうとは思うけど。 お兄ちゃんの亡くなり方は闘病の後亡くなったお母さんとお父さんとは違うやん。さっきまでLINEしてた相手がいなくなると言うことがこの世にあり得るということ。さっきまで普通にほななーって電話切った相手が突然いなくなること。これから学んだことめちゃくちゃあった。明日も今日と同じとはだれも約束されてないって言葉ドラマとかのキザなセリフと思ってたけどほんまやしな。 まわりの人に愛を与え、愛をもらい大切なこと見失わないように生きていかなあかんわ。 仕事、子育て、毎日イライラしすぎなこと反省します。 お兄ちゃんおめでと〜!